そこで一番印象に残ったのは、喪主である息子の葬儀に際してのお礼の言葉であった。
叔父は息子にも生まれ故郷の赤穂に帰りたいと言い続けていたそうである。
それは兄である私の父に対してもずっと言い続けていた。
高校を出て就職して名古屋に暮らして50年以上も経つのに、赤穂から気持は離れなかった。
赤穂には盆正月に戻ったが、自分の妹を手伝いに呼び寄せたり、私や従姉妹もG叔父を頼って名古屋の大学に進学した。
結局、誰一人名古屋に居着くことはなかった。
一番名古屋で裕福に暮らしていたG叔父だが、赤穂で親戚が寄り添って暮らしているのが羨ましかったのかも知れない。
G叔父は酒はそれ程ではなかったが、肉が大好きであって、脂肪分を良く摂っていた。
亡くなる数日前にも、肉やウナギが欲しいと言って食べたそうである。
結局、尿も出なくなり、点滴もできず、あまりにも苦しそうなので透析を中止して亡くなった。
亡くなる二日前まで意識があり、最後は苦しまずに眠るように逝ったという。
G叔父は現役時代はまじめなサラリーマンで、妻のY叔母は伝書鳩のようにちゃんと戻ってくると言っていた。
ゴルフや職場でのちょっとした付き合いはしていたようだが、道楽のようなものは無かった。
好きな脂っこい食事をとるのが大きな楽しみであったのだろう。
今回の葬式にはもう一人の糖尿病のS叔父も参列していた。
この叔父も60歳頃に目の調子が悪いので、診て貰ったら糖尿病と分かった。
それ以降、毎日一時間半早足で歩き、食事にも気を使って、酒も1合だけしか飲んでいないという。
S叔父は持病を理由に去年の5月のG叔父の足切断の際の見舞いには行かなかった。
後で聞くと弟であるG叔父のことを怒っていたという。おそらく見るに忍びなかったのだろう。
同じ糖尿病を患いながら、重篤な合併症で足まで切断した死に至ったG叔父と、運動と食事でほぼ完治したS叔父。
もし、G叔父が赤穂に戻ってきていたなら、兄を飛び越して亡くなることはなかったかも知れない。
しかし、一旦生活を築いた家族が名古屋を離れることは不可能だった。
私の兄弟も二人赤穂を離れて都会で暮らしている。
二人はG叔父と違い、赤穂に帰ってきたいとは言わない。
上の方は神奈川で研究職に就いているが、かなり重い持病を持っている。
下の方は名古屋に単身赴任で一度痛風でえらい思いをしたが、今は食事と運動に気を使って幾分回復している。
長男である私は、会う度に私より先に死ぬなよと言っている。
働き盛りの50歳前後の交わす会話ではないが、それだけ不安なのである。
二人とも私より年収は多いが、私よりも健康面で問題を抱えている。
G叔父の葬式に参列したこの二人の弟は、叔父の死を自分のこととして捉えてくれただろうか。
叔父の死は私や家族、親戚に大きな教訓を残してくれた。